昭和40年02月24日 朝の御理解
「素直にて雲の上まで、登る道あり」私は、今日素直になれ素直になれというそういう意味合いの素直ではなくて、素直な素の字。ね、今日この所を一つ聞いて頂きたいと思う。そしてその素直とそれがどういうふうに関連しておるのか、私にも分かりませんけれども、そういう境地そういう信心を求めてゆきたい。例えば素面素手とか何にも持たない事を素手と申しますね。
面をつけない事を素面と。こう踊りなんかでも衣装を付けずに、例えば袴なら袴だけぐらいで、この踊ります踊りを素踊りと申します。おうどんやなんかになりますと、具の入っていないのを素うどんとこう申します。ね、本当にその素うどんの味が分かるようになったらやっぱ、うどん食べの通であり、素踊りを人の前で踊れるようになったら、もうたいしたもんです。ね、
素面すこうてでですたいどういう・・向かわれるようになったら素晴らしいです。相手が白刃を持って向かいましてもです、それこそ立つとび三寸で身をかわされるんですからそして・・っていくんです。そして向こうの急所というか、向こうの隙を見てはこうその手らひとつでです相手の持っておる、例えば刃を打ち落とすことが出来ると言った様にですね私も信心のですね、素のつくような信心をさせて頂きたい。
素晴らしい事だろうなあ、あれがなからなければ信心が出けん。これがなからなければなかなか出けん。信心するのは、まずやっぱ暇と金がなからなでけんですもの。そんな事よくいうです。ね、これこれの条件が揃わなければできない。そんな事はないですよね、例えばなら素うどんでもそうでしょうが。本当に素うどん食べというのは中々通です。例えば私どんいつもそばが好きですから、そばを食べに参ります。必ず私はどんなお客さんを連れておる時でもかけそばを食べます。
なんにも入ってないやつです。まっいうならネギとコショウぐらいで頂く訳です。所がその蕎麦屋の親父が言うですね。もうかけそばを食べる人程そばのですね、うわ加減からすめの具合をちょっと考えん訳にはいかんといいます。ね、具入りの例えばそばならそばを食べる人はですね、もう具でいいかげん味をごまかす事が出来るという訳です、ね。所が、かけそばを食べる人は、もう本当にそばのそばを味合い尽くしておる人である。そばの味を知っておる人なんですから。
そういう意味合で今日は素直と言う事がいかに素晴らしい事かと言う事が分かるでしょうが。なぁにもいらんとです。素直ひとつで雲の上まで登る道があるのが、お道の信心だと思うんです。ね、名人達人の境地とでも申しましょうか。私いつも思う事なんですけれども、2階の客間に紫檀の香炉の台が置いてある。それに香炉が一つこうおいてある。所が、そこを掃除する時にですね、必ずその位置をちょっと変えるんですね、こう取り除いてからするらしいですよ。
もう5分位置が違ってもその香炉が死んでしまう。軸が死んでしまうんですね。でもあぁた方掃除する時にはもう動かさんでから、こうやりなさいと言うけどやっぱり母やら古賀さんやらがやるけれども、感覚がないもんだから分からんのです。どうもその位置が違っておると、私はその前に例えば座る気持ちがしない。夕べもお月次祭ですから、あそこに座らして頂いたらほんのちょっと位置が違う。もうお祭りで下に降りてこんならんけど、どうもそれが引っ掛かる。
で私は又立ってからちょっと位置を廻わさせて頂いた。で心が落ち着く。そして私が思うのですね、その紫檀の台が少しこのゆらゆらしてますもん。その紫檀の台がですね、誤ってもし壊れてしまっておったらどうだろうかと私思うた。恐らくひとつも心に引っ掛らないだろうと私は思う。私今日そこへんの所を皆さん分かって頂きたいと思うですよ。ね、そこを十二分に生かすと言う事。これは一生懸命例えばうどんならうどんの、素うどんなら素うどんと言う事がです。
うどんのゆがき方にもすめの上にも十二分の生かし方がなされてあって初めて、素うどんのうどん食べといえるのであり、素うどんを食べる人は、いわばそのうどん屋の親父をもって、恐いと言われるようなものじゃないかとこう思うんです。あれがなからなければ信心はでけん。こういう条件が揃わなければ信心がでけんですもんね、と言う事はないと言う事。しかもですその信心でです、ね、自分の心ひとつで心次第でです、どんな災難であろうが難儀な問題であろうが、心ひとつで受け止めてゆく。
いわゆる・・・三寸で身をかわすようなおかげをです、信心の上に頂きたいなと私はその事を思う。とにかく信心の名人達人と言う事になってきたら、そう言う事にやっぱなってくるのじゃないだろうか。三代金光様なんかやっぱそう言う事になっておると思うんですよ。自分の中にある本当の信心の喜び一つでです、一切の問題を変えて下さる、おかげの道をつけて下さる。おかげの道とはこういう道を歩かないけんのですよというて、理解下さる訳でもない。
お願いする只はいはい、はいと仰るだけ。なんと素晴らしい事であろうかと。たったお年13歳満、かぞえの14才の歳、お父様が座っておれば楽じゃというその一言でです、70年間という長い年月をそれこそ一日のごとく勤め抜かれたと言う所。その素直さ一つがです多くの信棒者から生神様としての、又神様からも生神としてのお徳をお受けになられた。所謂雲の上まで登れる道がついてくるんだなと、あるんだなと言う事が分かるでしょう。ね、私が今申します持っておる物を。
一切ふるに生かすおかげを頂かねばいけません。一日をとってももう死んでおるという。例えば私がその壊れた香炉台の話を致しましたように、そうある物は十分に生かすけれども、よしそれが崩れて割れておってもです壊れておっても【 】私は昨晩その事を、そっとお祭りに立つ前に思わして頂いた。恐らく私はどうして壊したかと、惜しい事をしたなとは、おそらく心の底には言わんだろうとこう思うです。これが私は我情がない我欲がない姿じゃないだろうかと思うんです。
ある意味で勿論これは垢抜けしてゆくと言う事においては限りがありません。それでいてです、それがある限りはです、十二分に生かそうとする、私は信心意欲というものがですね、必要じゃないかと言う事なんです。皆さんひとつ踊りを踊る人は、素踊りが踊れるいわば、地を作ってゆかなければいけませんね。食通であるならばです、例えばうどん、その、必ず具うどんにしなければ、具の入ったそばでなければ品が悪いと言った様な事は決してありません。
むしろそば屋の親父がです、かけそばと言いますと、ちょっと顔を見といてから湯がき直したり、又素を新たに吟味すると云われるくらいでありますから。神様はですこちらが、もし何にも分からんでもです、素直なら素直、もうこの人ばかりはばかなほど素直ということになったら神様が警戒なさいます。確かに、もうこの人ばっかりはどげなこつでんはいちゅうけんで、うかつな事は言われんというふうに、神様がですね、そう言う様なところを私は感じますね。
神様の上に。所謂本当な事しか教えられないと言った様な事になってくるのですよ。今日私はいつも素直になれ素直になれと言った様な意味合いではない、この素直の素の字について、私の考え方頂き方。私の願いとする所。本当に心ひとつでおかげが頂いてゆけれる、しかも雲の上にでも登れれる、そういう道を体得したいなというふうに感じます。
おかげ頂きました。